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今年の振り返り
年末年始
祖母が足を悪くしてから5年ほどが経って、2022年の後半は入退院を繰り返すようになっていた。
祖父母が住まうマンションにエレベーターはなく急な階段を使って1階と3階とを行き来するのは、とてもじゃないが現実的ではなかった。
夏頃から母が転居先を探していた。自分は、祖父母と一緒に過ごすのでもいいかなと思い、祖父母の家の近くで物件を探していたがあまりいいところはなかった。
いよいよ時間に余裕がなくなり、12月の終わりには母のいる実家のそばに引っ越すこととなった。
11月までは契約周りの話をたまに聞く程度だったが、12月になった途端に様々な話が現実味を帯びてくる。
毎週仕事に勤しんでは、土日は実家や祖父母の家に通って引っ越しの準備や書面手続きの手伝いをする。お年玉の準備なんかもした。今回はスプラトゥーンのかわいいポチ袋とステッカーを事前に準備していて、どうしても渡したかったのだ。
そうしているうちに引っ越しの日を迎えて、荷物の運び出しから搬入、家電の配線、祖母の導線の確保、搬出後の掃除、その後に見に来た不動産の方の対応、そして祖父母の機嫌取り。
なんとか引っ越しは終わって家に帰る。大掃除をして、大好きな演劇部の同期との忘年会。全部どうでもよくなって感謝しかなかった。
しかし、心と体をここまで疲弊させたのはかなり久々で、その翌日からはぶっ倒れるように休んだはずだ。正直記憶がない。
1月
2023年が始まった。2日の夜に神社に行き、屋台を楽しみながら年始の雰囲気をようやく味わった。
三ヶ日が終わって早速、ひとり情シス兼エンジニアの私はプロダクトのコストカットやら既存製品のコードリファクタリング、散らばった仕様のまとめなど大忙しだった。
初週の3連休に、ゲーム仲間と飯を食って、うちに集まって夜通しゲームをした。もはや何をしたかなんてのは覚えていないが、夜中には花月のラーメンをデリバリーしたり、朝まで馬鹿騒ぎだった。
翌日には社長の誕生日を祝う会があったので、オフィスに行った。なんだか喉の調子がよくなかったので、マスクをして、出された食事もかなり気をつけながら食べたのを覚えている。日頃お世話になっていて、今回はサプライズというのもあったので、欠席はしたくなかった。
そしてその次の日に、私はコロナにかかった。ゲーム仲間のひとりが同時期に発症したが症状は軽く、幸いそれ以外の人(とくに祖父母)に移ることはなかった。しかし私自身は1週間半のあいだ、何もできずうなされた。高熱と喉の痛みで体は動かず飯も食えず、味も変になってしまった。トップバリュの卵がゆがこんなに美味しかったのは初めてだった。
当時ChatGPTの台頭を皮切りにGPUの価格高騰とクラウドでのGPUリソース枯渇がおこる。AIの会社である建前、自社で最低限の学習を回せるようにしたいとの意向から、60万のGPUを3台ほど購入しセットアップする。結構怖かった。
2月
浴室の換気扇が壊れて、風呂に入れなくなる。連絡から1-2週間ほどで修理交換をしてもらったが、寒くてなかなか耐えられたものではなかった。実家に通って風呂に入ったりした。
私のプロジェクトのほとんどは、もともと外部への委託開発から納品されたもので、それを自分たちで保守、改修していく必要があった。2月は、その上でのコードベースの理解と会社のセキュリティ認証の更新に明け暮れて、あっという間に終わってしまった。
月末に、かねてより計画していた家族旅行で大阪に飛んだ。ANAの飛行機が日本全国どこからどこまででも片道5-6000円で乗れるという脅威のキャンペーンで年末に滑り込みエントリーしたものだった。 そのため飛行機の時程がかなりシビアで、金曜の夜に大阪に着き1泊したあと、大阪市街の方を1日観光し、翌朝には帰るという弾丸旅行となってしまった。 それなりには楽しめたので、よしとする。
3月
とにかく病んでいた。自分の仕事に生産性を見いだせず、自分の成長に繋がっているようにも思えず、ひたすらに病んだ。 仕事が楽しくなかった。コミュニケーションエラーをよく起こす数人とひたすら向き合わなければならない毎日に半ばお手上げ状態だった。
古着好きのいとこが四国から東京に遊びに来たので、下北沢に行ってスパイスカレーを食った後に古着を買った。店員に話しかけられるのが怖かったようで、自分だけ楽しんでいたようだ。
それからは月末に友達と会えるのだけを楽しみになんとか生きた。髪にパーマをかけた。
友達との飲み会の3日ほど前に、会社の事業譲渡のためのシステム移管を任命された。あわせて社名も変更するため、会社の登記やドメインの移管、新規ドメインの取得などなど、やることの量と難易度は一般的な事業譲渡を大きく超えたものだった。当時はまだ役員クラスのメンバーと私だけの機密として話が進んでおり、誰にも話せない中で水面下までこれら作業の準備をすることとなった。5月の頭にすべてが完了している必要があった。
こんななか友達と近況を話そうにもまるで落ち着かず、心底参ってしまったのを覚えている。体に力は入らないし、面白いこともあまり言えなかった。最悪だ。
4月
ビッグサイトでの展示会に自社が出展するので、表に立って商品の宣伝やら他のブースの情報収集やらをした。AIの会社に所属しておきながらこんなことを言うと結構印象が悪いかもしれないが、AIはみなが思っているような魔法ではない。結局のところ作り手使い手のスキル次第で結果は大きく変わるし、AIはあなたの人生などには微塵も興味がないただの計算機に過ぎない。他社の胡散臭いキャッチコピーを前に、なにごとも普及してしまうと敏感なビジネスマンにすぐ利用されるのだなと、なんだか悲しい気持ちになる。一方でわれわれの出す製品、われわれの経営サイドがそのような勘違いや悪徳なビジネスをしておらず、AIの正しい使い方をよく認知しているのは自分のキャリアに納得できるしありがたかった。
展示会が終わったタイミングで、社長から全社的に事業譲渡の知らせとプレスが出された。プレスというのは一般的に譲渡が完了した時点で打つものなので、動きやすさに配慮して事前に打ってもらったのは大きかった。あとから分かった話では、そもそも私が移管作業を任命された時点でプレスを打ってもよかったらしいが、それは聞かなかったことにしておく。
これによって、全社を巻き込んだ移管作業が行えるようになった。準備していたスクリプトもようやく動かせるようになった。 4月の後半には譲渡先に向かい、設備の設置イメージと必要な固定具などの見積もりを行ったあと、すぐに譲渡する事業で使用する設備の引っ越しを始めた。設置と配線で丸1日かかったのち、移管先のネットワークにあわせた設定で半日を消費した。
あとは、5月1日にすべてを切り替えるだけ。各作業をワンボタンでできるように手順やスクリプトを組んだが、実際に試せたことはないので非常に緊張する。一発本番で、うまく行かなければ最悪GW返上のつもりで当日を迎える。
5月
事業譲渡、社名変更のすべてが行われる日。用意した手順通りに作業が進む。想定では昼過ぎにすべてが完了するという段取りだった。
さっそくトラブル発生。メール送信がうまくいかない。ドメインを移管するために、旧ドメインあての一部メールを新ドメインに転送するシステムを用意していたが、これができて間もないシステムという判定をされて、Googleからスパム認定を受けるようになってしまった。さらに作成後間もないGoogle Workspaceはスパム認定した送信メールの復旧手段を持っていなかったため、一部メールが闇の中へと消える自体が発生してしまった。
さらには、旧ドメインでいつ設定されたかわからないDKIM署名も干渉して自体は複雑になる。これ以上専門用語を出してもしょうがないので割愛するが、複数の問題に見舞われて丸2日間をこの対処にあてることとなった。
結果的にこの問題は対処できる範囲で対処し、時間のみが解決してくれる問題は仕方ないという判断で作業が完了した。
GWは実家に帰って妹とゲームしたり、ゲーム仲間が東京に来るというのでマリオの映画を見て一蘭デートをしたり、譲渡先に転属になった元共同代表、元CFOの2人と海釣りに行ったりと、気がつけば終わっているほど充実していた。4月の時点でいろんなところから話が来ていて、忙しさからあまり予定を見ずに約束をしていたところこんなことになっていた。
さらに翌週には高校時代の友達と1年ぶりくらいに会って焼肉を食べて、家でスーファミのゲームをして一晩中遊んだりもした。
そんな中水面下まで話が進んでいた自社製品のクラウドインフラ大改修。月末に実行する計画で、様々な懸念を議論したり、実際に検証環境でテストしたりと、頭が追いつかない毎日だった。
7月に入社する正社員インフラエンジニアの方に絶大な期待を寄せながら、今と向き合う毎日だった。
6月
先の大改修は結果として6月半ばまで延期された。自分含め誰かを悪く言うつもりはないが、想定外や既存実装のボロが出てきたり、検証が十分に行えていなかったりと、さまざまな理由でリスクが解消されずに毎日のようにトライアンドエラーをしていた。
私はインフラの専任ではない。あまりにも不安で放っておけなかったのだ。結果として自分がいてよかったと思っているし、そうじゃなかった場合を考えたくはない。今後もインフラの面倒を見なければいけないのかという重たい責任感と、少しの不満が残った。
連日続く検証のさなか私は障害を起こしてしまった。すぐに気づき対処した(もう少し慎重になってもよかった)ために影響範囲は少なかったことは不幸中の幸いであった。しかしここ数ヶ月の疲れと不安から開放されないストレスに苛まれてついには損害を生んでしまったという悲しみと怒りに耐えられる状態ではなかった。
インフラの作業を委託していたエンジニアの方との契約を切ってもらいという気持ちは、これまでの運用保守に対する熱量のすれ違いや技術キャッチアップにかける工数の不足からも、絶え間なく起こる問題を見ても自明だった。しかし、そんな状況でも自分や他のメンバーがいるから回る、という現状を7月まではダラダラと続ける選択を自分の中で取っていた。その判断をできるだけの体力すらもなかった。今考えると非常に不健全であった。
事業譲渡から一段落し、会社の方向性と立ち位置を見直す時期になった。やるべきことはまだまだ多いと感じたし、そんな中余計な面倒事にメンタルをすり減らしている場合ではないのにと焦る気持ちが強まった。
私はテックリードに任命された。
7月
ついに耐えられなくなった。あるメンテナンスで、その彼は作業者であるのに問題発生時に解決をすることなく誰よりも先に抜けたのだ。彼も辛かったのだろう。であればと思い、お互いのためになると信じて社長に話を持ち掛けた。以前より“ヤバめ”であることは社長にも伝わっていたし、社長は私を信頼してくれた。話は早かった。
残るは引き継ぎだが、今月に入社したインフラエンジニアの方がフルコミットで現状把握をしてくださったおかげで私の心的負担はそのタスクの量のわりに軽くなった。ようやく楽になる兆しが見えてきた。
ようやくプロダクトのアプリケーション開発、その設計やレビューに時間を費やせるようになってきた。テックリードらしい仕事に挑戦できる時間が、全業務の3割を占めるようになった。少ないが、それだけでも大きな1歩であった。
とはいえ、これから秋の終わりごろまではそのテックリードとしての立ち回りに相当苦戦した。テックリードって何をしたらいいのだろう。いろいろと調べたテックリードの例をインプットする。この規模の会社で、いろんなエキスパートの間をつなぐ橋のようにコミュニケーションを取りながら、全方位に人並み以上の知識をもって設計や相談、実装までもをやるとなると、私はあまりにも非力ではないのかと。
他に適任がいないからとはいえ、そんなのってないよ!いくらなんでもひどすぎるよ!父と再会して間もないシンジくんは言うのであった。
みなの先陣を切って、同時にみなをまとめ上げる、そんなリーダーになりたいと意気込んで各メンバーにたくさん声をかけてコミュニケーションを重ねて立場の確率をして、そこから設計を書いて書いて書いて、それでも書いて、たまに自分でバグを直して、自分に足りない知識を夜通しキャッチアップして、数の増えた打ち合わせを終えるたびに大きなため息か深呼吸のようなものをして、ああ気がつけば初夏は過ぎて、夕立の雨音に感傷的になっていた。
つらくてどうしようもなくなったときに、昨年ルームシェアをしていた(過去ブログ参照)みんなのもとに泣きついた。こういうときに泣きつけて、ちょっとでも話を分かってくれる、いや、分からなくても話を寄り添って聞いてくれる存在がいかに大切で、彼らの愛の力強さに負けじと前を向けたことに、本当に感謝している。
8月
4月の大仕事は、それはそれは責任の大きいものであった。しかし今の責任はそれとは違って今後いつまでも続きうるものであると、1ヶ月ほどのテックリード経験を経てから気づいた。もうエヴァには乗りたくない。乗りたくないけど、他の誰かにこの思いをさせたくもない。レイの姿を見てエヴァに乗ると決めたシンジくんはえらいね。情けが理由だとしても、君はやったんだ。やることに意味があったんだよ。
8月の半ばに家族旅行で長野に行った。ただただ何もない、自然そのものに囲まれてリフレッシュしたかったのだ。山の日のある3連休の2日前から休みをとって1泊2日。3連休にはひとりで箱根に行こうと思ったが、もうなにもする気になれなかった。
最後に付き合っていた彼女に振られてから2年がたった。彼女は元気にしているだろうか。私は変われただろうか。あのときの自分、最低だったなーなんて思いにふける。2年後に今の自分を見たときには、もう少しマシに思えるようになってたらいいなと夜中の暗い部屋から満月を覗いていた。
9月
チームでの開発をする上での仕組みをあれこれ考えては試す。どれもあまり続かない。私自身もずっと続けたいと思えるインセンティブを感じられていない以上、これは仕方のないことである。うまくいかない。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるだなんて、多分鉄砲を撃ったことのない人の空言だなとか思う。
会社に続々と現るニューフェイスと仲良くなろうと必死にコミュニケーションを取る。空回りしそうで怖くてメッセージを送るか5時間悩んだりもした。職場の同僚相手にすることではない。
このあたりで、開発の遅延が私のメンタルを次々と追い込んでいく。優しい経営陣はいやいや十分だと言ってくれるがオンスケでないことは変えられない事実であって、その原因が自分にもあることは強く自覚していた。休む間もなく度重なる意思決定と探り探りのコミュニケーションに疲弊しきって仕事がまったく捗らなかったのだ。モチベーションだけは高くあったが、成果物が出ない。このままではそのギャップに自分自身が心をひどく痛めつけてしまうという焦りすらも感じていた。
高校時代に交換留学で日本に来て友達として連絡を取り続けていたニュージーランドの学生が、いま日本に1年ほどの留学をしていて、落ち着いたから会おうと7月に連絡をくれたことを思い出して、彼に連絡を取った。4年ぶりの再会だった。彼はとにかく日本語が流暢になっていた。江古田の行きつけのスナックに連れてってもらった。私よりも日本人をしているじゃないか。
個性的な常連客たちと談笑した後、夜中の1時から3時間ほど彼が最近ハマっているというチェスをやった。チェスは初めてちゃんとやったが、その時の思い出補正もあるものの面白かった。
彼の絶え間ない努力と積極的に日本語と触れ合って勉強するその姿勢に、とにかく尊敬した。そして打ちひしがれた。夜明けを待つ駅前でくつろいでいたかわいい猫を前に、私はいったいどんな顔をしていたのだろう。猫たちは私だけにただならぬなにかを感じてか余計に距離を取っていた。さしずめへべれけの不審者といったところだろうか。間違ってはいないのだが……
月末に違う方面の友達2グループとそれぞれ会えることになった。ゲーム仲間とは初めてTGSに行ってみた。久々にそういったイベントに参加したがただただ疲れるだけで、結局最後の焼肉が一番楽しかった。日本語の怪しい店員さんにラストオーダーを聞かれアイスを注文したところライスが出てきたときには全部がどうでもよくなった。ありがとうライスおじさん。
このあたりから創作意欲が強くなり始めた。仕事で全然生産性を発揮できないし、周りはクリエイティブで素敵な友達にあふれているから、これは自然なできごとだったと思う。
ぼんやりと、ブログを書きたいなと思った。書きたいことだけ先に決まって、あとはどこに書くかなーと悩んでいた。
10月
satake.blog が誕生した。この名前は特定少数の人に見つかった時に懐かしいと思ってもらえるかなと思って……それ以上に、ネタが他になかった。
なんだかんだ設定やら色とかフォントとかカスタマイズしてたら1週間が経ってしまい、人生と人の魅力と自信の話を書くころには当初書こうとしていた文章はほとんど抜け落ちていた。でも伝えたいことやテーマは頭の中にあったので、とりあえず書ききってみた。
その最中に惰性で続けていたTinderでマッチした人から連絡が来た。いわゆるミックスバーの勧誘だったわけだが、興味本位と話し相手のほしさに遊びに行った。
なんと今日が初出勤だったというそのお姉さんとは、最初は全く話が弾まなかった。しかしあるときに私が好きな人の話をしたタイミングからその人は目を見て真剣に話を聞いてくれた。その人は過去にいろいろあったと言っていたが、根はとても真面目な人なんだなと、まっすぐな目を見て安心した。そして、明日にでも好きな子に連絡しろと、その気持ちを伝えてこいと背中を押してくれた。
その子とは翌週に会えることになった。塞ぎ込んで考えてばっかりではなく、こういうのはちゃんと正面切って言ってみるものだ。彼女と会えるまでの1週間、それはそれは緊張でどうにかなりそうだった。ミルクティーを盛大にこぼしたし、体を部屋中あちこちにぶつけたし、明らかに様子が変だった。そして当日、私は振られた。
なんだか暗い終わり方っぽく見えてしまうので補足を入れておくと、私は後悔していないし、その機会で十分に得られたものがあった。みんな辛いなか苦しいなか頑張っていて、目指すところはお互いの幸せであった。そこに嘘や欲が入り込む余地はなかった。他人は自分の思う以上に自分を大切に思ってくれているし、自分自身も周りにその気持ちを忘れてはいけないと気付かせてくれた。だからこそ、少なくとも自分だけは納得できるような人生を私は作りたいと思えた。これまでは、私自身の人生を、私が否定することでいつまでも受け入れられず前に進めなかった。それももう終わりである。
総括
2023年も残すところあと2ヶ月となった。このタイミングで総括をすべきかは悩んだが、今年末のことは来年の総括にでも含められたらいいかなと思っている。なにより、ブログを続ける上では定期的になにかを書いておかねば。
さて、今年の私はは人の愛に救われて、愛をもって行動する素晴らしさを知れた。優しさがひどく人を傷つけることがあると知った。正しさがすべてを解決するわけではないと改めて痛感した。
ほんとうに、今年の私のテーマはこの「愛」「優しさ」「正しさ」の3つであった。恥ずかしながら今まで気づくことができていなかった。斜に構えて受け入れてこなかった。
そんなたくさんを一歩ずつ受け入れられた一年だった。
私は成長した。また偉大になってしまったな。まだ21だというのに、かわいげのない奴だな。
自信がついた。私の役割と、私の大好きなみんなが私を慕ってくれているということをこの目で確かめられた。だからもう、私にとって今年はかけがえのない一年だった。一日たりとも欠けてよい思い出はなかった。自分に素直に生きられた。
一方で心身を壊し始めた。3月には鬱になった。4月には肩が痺れてしょうがなくて、1万円以上する整体に毎週のように通った。10月の頭には腰を痛めて、リハビリを担当してくれている理学療法士さんにストレッチなどではなく筋トレを勧められた。少々張り切りすぎたし、いろんな人に心配をかけた。もちろん、そのおかげで人のあたたかさにもたくさん触れられたことは忘れない。すべてに意味を見いだせるようになっている今の私は無敵かもしれない。
来年に向けて
来年は、自分の体と心をもう少し大切にしていこうと思う。無理な仕事はしないで、人に頼って助け合いながら生きていけたらいいと思う。
それから、もうすこしブログを頻繁に更新したい。こういう長文もいいけど、ちょっとしたつぶやきやら技術的な発信を多めにしたい。
一応ひとりの技術者である建前、来年の技術的な抱負を述べるとするならば、組織開発でのノウハウをより多く身につけて、ハイレベルな開発者集団の先陣を切り続ける存在になりたい。そして、誰からも尊敬され、そして支えてもらえるようなリーダーシップと愛をもって仕事に臨みたい。
私へ
こんな長文書いたところで、結局これをいちばん読むのは間違いなく自分自身だろう。過去の自分の発言を見返しに来ているということは、私は少し病んでいたり心細かったりしているのではないだろうか。
誰かに何かを伝えたいのならすぐに行動しろ。一度学んだことだ。できないことはない。
元気がないだけなら、週末に行きつけの古着屋に行け。金はそういうときのためにある。絶対に買いに行け。
そしてみなに感謝しろ。これを書いている自分自身にも感謝しとけ。形から入るのも悪くないぞ。