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人生と人の魅力と自信の話
書いていたらやたら長くなっちゃいました。
生きねばならぬ
私は中学生の頃から趣味でエンジニアリングをやっていた。プログラミング、電子工作、データ規格の設計、アルゴリズムの最適化と、興味の幅は多岐にわたった。
そんな若き日の私だが、高校卒業後は英語の教員になりたいと思っていた。英語圏の文化が好きで、同時に日本語が好きで、正しく伝え体系的に物事を共有する、そんな人間になりたかった。
がしかし大学受験で撃沈。高校2年生になると面倒くさがりと反抗期と妙な反社会的イキりで勉強を怠っては深夜までゲームをし、学校にもあまり行かず、その結果がそのまま受験に現れた。
さて、高卒の私に与えられた猶予は浪人生としての1年のみ。私は半ば大学生になることを諦めて、スーパーでレジを打って、付き合っていた彼女と遊び呆けては、進路について考えねばならない現実から逃げ続けていた。
そして2度目の受験で見事に落ちた私は、残された手札と向き合うこととなる。
「エンジニアとして収入を得て、生きなければいけない」
趣味を仕事にするというのは、一般的にも言われているように、趣味の楽しさや魅力を感じられなくなってしまう悪手になりかねない。過酷な仕事に追われてエンジニアリングが嫌いになってしまっては、もう私には何も残らない。
そんな私を待ち受けていたのは、過酷なフリーター生活や就職活動、資格の勉強、趣味を楽しめなくなる未来……なんてものではなく、まったくもって予想外のシンデレラストーリーであった。
出会い
42 Tokyo というエンジニア養成機関がある。
42(フォーティーツー)は、フランス発のエンジニア養成機関です。 現在は、世界29カ国にて展開されており、2020年6月に東京校として 42 Tokyo を設立しました。
多くの企業の支援、寄付で支えられており、授業料は完全無料。 学生は、18歳以上であれば経歴を問わず入学することができ、 その後のキャリアは起業をしたり、就職するなど、自由です。 また、基礎カリキュラムを終えたら、他の42キャンパスに留学することも可能です。
革新的で、日々最新にアップデートされるカリキュラム。 世界中の学生たちが、今この瞬間も42でスキルを磨いています。 ―42 Tokyoホームページ
この機関の存在を高校生時代から知っていた私は、現役の大学受験前に一度担任との進路相談で、進学先をここにしたいと持ち掛けていた。
進学校であった母校で、それは簡単には認められず断念をしていた。「とりあえず大学受験してみなさい」と言われたときに、私の進路へのこだわりは消えていた。
浪人後の受験失敗後にこれを思い出した。学費・入学料が完全無料でキャリアが手に入る、今の私にとってまさに夢のような話ではないか。
そして、大学の合格者一覧を見た直後にはエントリーをしていたのであった。
42の入学試験はPiscine(ピシン)と呼ばれていて、参加者全員が同じグループに入れられて、1ヶ月の間に与えられた課題をひたすら解決していくようなものであった。個人個人の課題提出と、グループへの貢献や教え合いなどのコミュニケーションを評価基準にしていた。
そんな話を聞いたからには、初日からコミュニケーションを取ってポイント稼ぎをしたいものだ。私は事前に受験メンバーが集められたDiscordグループに入るやいなや、すぐにハイテンションな挨拶をかまして、メッキが剥がれるまでの間だけでもせめて陽キャになっていようと意気込んだ。
グループには、下は18歳から上は40歳以上と、幅広い年代のエンジニアリング経験者・未経験者がおよそ300人集まっていた。
グループ参加の当日に、イカしたアイコンの男女のペアがボイスチャットに参加していて、何やら事前に雑談をしていた。この機会は逃したくないと思いそこに参加。20代後半くらいの若い男女が気さくに話しかけてくれた。
42は六本木に校舎を構えている。数日後に控えるPiscineの初日には、ここに行って校舎出入りのパスを受け取る必要がある。そんな話をしているとイカした二人は私に「当日一緒に校舎に行かないか」と誘ってくれたのだった。乗らない理由もなく、ぜひそうしたいと言って、2人とDiscordのフレンドになった。
Piscine初日。身の丈に合わないオシャレなビル群を脇目に待ち合わせ場所へ向かう。写真以上にイカした二人を見つけて声をかける。人間違いだったらどうしようという不安を飛び越えて、ハイテンションな女性の声に圧倒された。
「i-shunta(グループに参加するときに指定された私のユーザー名)くんだよね!?やばいね、めっちゃ楽しみ!ブチ上がる!よろしくー!」
付いていけるか怪しいくらいのノリに緊張しつつも校舎に向かい、パスをもらった。
同時に、1ヶ月間のPiscineが開始した。校舎を使ってみようとしたもののコロナ対策でイヤホン・マイクが用意されておらず、トラブルも相まってPCへのログインすらできない。
イカした2人にそのことを話すと、予想だにしない提案が待っていた。
「それだったらわたしたちの家で一緒に課題やろうよ!」
転機
実家から電車で1時間ちょっと、イカした2人に教えられた住所を目指してたどり着いたのは、アパートに併設した、もとは大家が使っていたであろう3階建ての家。
2人はルームシェアの入居者だったのだ。
ルームシェアは4人と1匹の猫でやっていて、落ち着いた雰囲気のデザイナー、同年代くらいの大学生の女の子、そしてイカした2人の集まりだった。また、イカした2人は同じ企業で勤めていて、エンジニアリングは未経験だったと知った。
それを知った瞬間に妙な安堵を覚えた。直後に、何も知らずにホイホイと大人についてきていた19の私は、自分がいかにリスキーなことをしていたかに気が付き緊張と冷や汗が止まらなくなった。するとイカした女性は「顔色悪い?チャイ飲む?」と言うのであった。
Piscineの課題を淡々とすすめる。右も左もわからない2人に、手取り足取りエンジニアリングを教える。
結果、私と2人は意気投合し、その日の帰り際にこんな提案を持ち掛けられた。
「このPiscineの1ヶ月間、うちに泊まっていきなよ!家賃とかいらないからさ」
このようにして現れた私の人生における転機は、しれっと顔を出しては、迷惑なことにそれからの私をまるっきり変えてしまうのであった。
異世界転生
事の顛末を両親に話し、次の日には最低限の着替えとノートPCを持ってシェアハウスに到着した。両親は賛成だとか反対だとか、そういう感情を持つことすらできないほどに私の話に置いていかれていた。既成事実のゴリ押しのようなものになってしまった。
そんな気持ちとは裏腹に、胸の高鳴りが隠しきれない自分がいた。おれ、イカしたエンジニアになっちゃうのかなー!
そこからシェアハウスでの1ヶ月間の居候が始まった。イカした二人は午前中に仕事をこなしては私のもとにやってきて一緒に課題をする。夜にはシェアハウスのみんなでテーブルを囲んで飯を食べたり、忙しくなってきたら夜中にコンビニに行ってみたり。イカした男性にサウナに誘われて行ってみては、何も分からないくせに背伸びして「整った」とか言ってみたり。
イカした2人と一緒にいた私は、残念なことにイキり具合だけを増していた。
さて、今回のPiscineのメンバーはそのほとんどが未経験者の集まりだった。私のように趣味でやっていた人が4-5人、仕事で経験している・現役でエンジニアをやっていた人が2人ほどだった。
つまるところ、無双状態の引っ張りだこである。
私が解説会、勉強会を開こうものなら、10人、20人とワラワラ集まって、真剣に私の話を聞くのである。ペアで課題を解くときなんかは奪い合いになるのである。そしてDMには毎日のように課題についてやエンジニアリングをする上での相談が届くのだ。
これは非常によくなかった。私は、私自身に、過剰な自信と可能性を見出してしまった。のちに私をどこまでも苦しめ追いやる問題になった。
そんなこともつゆ知らず、毎日がキラキラ光って見えてしょうがないオレは、来る日も来る日も悩める子羊たちの教祖をやっていた。
転機、ふたたび
Piscine開始から2週間ほど経ったある日、2人はまたも私に転機を持ち掛けた。
「てかさ、ウチでエンジニアとして働かない?」
オレは、この言葉を聞く前から半ばその気になっていた。「だって、みんなに求められてて実力も認められてるオレ、おたくの会社にほしいでしょ?」
そして2つ返事で社長と挨拶。スカウトという形でのインターン入社が決まったのである。
そこで調子に乗ったオレは、こんな提案を返していた。
「オレ、このシェアハウス入居したいっす」
シェアハウスにいた大学生の女の子が、ちょうど実家に戻ると言っていた頃のことであった。
久しぶりに実家に帰り、両親に就職とシェアハウスへの入居を報告する。2人は依然としてまったく話に付いてこられなかった。
予想外に刺激であふれる毎日
Piscineは順調に進み、ついに最終日となった。参加者のうち、最後まで残った40人ほどがその瞬間に安堵する。私を含め私と一緒に課題に取り組んだメンバーのほとんどは合格していた。
しかし42には入学しなかった。最終目標としていた就職が決まったのだ。今さらここに行っても仕方がないだろう。
シェアハウスでの生活の準備が始まる。すぐに入居はできなかったので、1ヶ月は実家で在宅インターンをこなしながら入居の支度を進めていた。
入居日。念願の一人部屋。大好きな猫も付いてくる。最高かよ。
荷物の搬入が終わってちょっぴり寂しげな父が帰る。ついに私は独り立ちしたのだ。
イカした2人は、友達の数が異様に多かった。居候しているときから、すでに毎日のように違う人が家に現れて、話に巻き込まれては興味を持ってもらい、一晩中話すこともザラだった。
業種も年齢もまるで違う人々。会社の社長や投資家が(もちろんプライベートで)来ることもあれば、同年代のイギリスの大学に通っている今どきの女の子が来たり、地上波のアナウンサーが現れたり。とにかく、誰しもがイカしていた。
たまにはイカした女性のお母様が持っている別荘にお邪魔してプチ旅行みたいなものもした。いろんな人と夜通し喋っては、自分の内面を見つめ直したり、新しい発想をたくさんもらった。
どん底のはじまり
当時私にはお付き合いしていた彼女がいた。1度別れて復縁して、合計で4年以上続いていた。
私は振られた。距離を置きたいという言葉を最後に彼女は音信不通になった。インターン入社の2ヶ月後のことだった。
そのときはあまりに突然の出来事に感じた。もちろん、ここまで読んだ人からすればこうなるのは当たり前のように感じるだろう。
私は、否、“オレ”は振られたのだ。振られて当たり前だ。彼女にはとても顔向けできない人間になっていたのだ。
仕事はというと、私がインターンで入社してまもなく体制が変わり、私がCTOの仕事を一部引き継ぐことになった。インターン入社3ヶ月後にして、その仕事の責任を鑑みて正社員になった。この出来事はひどく私を複雑な気持ちにしてみせた。
このまま波風もなく安定した収入を得て穏やかに結婚できるという神話を信じていた私はいま、その相手を失ったが正社員にはなってしまった。順序が、オレの計画が壊れてしまった。
次第に私は、過剰に抱いていた自信の存在を知り、オレの醜きに気づくようになった。自信だと思っていたものが、過信だった。自信を失ったかのような気分になった。
仕事はそれなりにこなせていた。自慢になるが、私は周りが期待していた以上に社会にフィットしていたし、求められるスキルも難なく身につけられていた。
しかし自信を失ったその日から、私は仕事にも達成感や自信を持てなくなってしまったのだ。あとから見れば、そんな大仕事をひとりでこなせるだけで十二分にすごいのに、こんな程度じゃ一人前じゃない、と自分を追い込み過小評価を繰り返したのである。
私は翌年のはじめに鬱になった。朝日をどれだけ浴びても起きられず、一日に価値を見いだせず、息を殺して過ごす日々が始まった。
だんだんと、他人と接している中で受ける刺激が自分への針のように痛く苦しく感じるようになった。ルームシェアをやめて、一人暮らしを始めた。
高校時代
高校生時代、私は演劇部にいた。この話はいずれどこかですると思うが、私の代は高校演劇コンクールでその高校ではめったにない関東大会への出場を果たした。コンクールでの脚本は部長が自ら書いたものをもとに、設定、シナリオ、時間軸など、細かな肉付けを部員のみんなでああでもないこうでもないと議論して出来たものだった。
さて当時の私はというと、この高校演劇の世界にどっぷりとハマってしまい、とくに肉付けの工程に誰よりも燃え上がっていたのであった。
このときの経験は、創作や表現といったクリエイティブの世界に強く私を惹きつけるきっかけとなった。
ゼロイチができない
鬱まっしぐらの中、先の演劇部の同期と集まることがあった。私以外はみな大学生で、コロナ禍とはいえ充実した様子だった。
友達とどこに行ったとか、研究でこんなことをしているだとか、実習でこんなことがあっただとか、そんな話をするみなの人生がキラキラと光って見えてしょうがなかった。
元部長は大学の文学部で戯曲を書いたり、趣味のTRPGのシナリオを書いたりと、日々創作活動に打ち込んでいたそうだ。実際にそれらの戯曲のいくつかを共有してもらって読んでみた。彼女の作品はどれも高校時代から変わらず、メッセージやテーマがこの上なく理解しやすい構成になっていると感じた。
その日から、私は彼女に強い憧れを抱くようになった。こんな創作ができるなんて、メッセージやテーマを込めて最後まで一貫した話を書き切れるなんて、私には“なぜか”できない。私だってこんなクリエイティブをやってみたい。
思えば、私は高校時代から作品の「肉付け」に対するこだわりが強かった反面、なにもないところからテーマや展開を作ることは本当に苦手だった。物書きをしてみようにも、音楽を作ってみようにも、すぐに寄り道しては変なところにこだわって、気づけば本当にやりたかったことは1%も満たせずに飽きての繰り返しだったのだ。
憧れは次第に自分への執念へと変わり、自分自身に「ゼロイチ」のクリエイティブができないことを強くコンプレックスとして抱くこととなった。
苦手な同僚、プライドのメタ認知
職場の体制変更が落ち着き、新しい人が何人も入ってきた。その中に、自己主張が激しくて我が強く、変なところにこだわるがとにかく文句ばかりで仕事をやりきるまでの時間がかかる、そんな人が入ってきた。
苦手だった。自分によく似ていて、自分の嫌なところが誇張されているようで、苦しかった。
しかし仕事は仕事。彼とのコミュニケーションにはある程度臆せず挑戦しなければいけないし、すぐに白旗を上げてしまうと今後のキャリアが厳しいかもしれないと自信のない私は考える。
同時期に、私は会社の運命をも変えかねない極秘(当時)で大きな仕事の一部分を一人で担うことになった。友達にも家族にも、会社のほとんどの人にも話してはいけないトップシークレットの重圧と、やらねばならない仕事の難易度の高さ、そんな中苦手な同僚と向き合わなければいけない現実に苛まれていた。
大仕事はトラブルもありながら無事終えることができた。やればできるのだと自分を見直したが、そんな安堵もつかの間、心身ともに使い果たした私は倒れてしまった。
休暇をもらって少し休んだのち、ふたたび仕事に復帰した。と同時に思い出してしまった。ああ、苦手な同僚とまた向き合わなければならない。
彼は話が長かった。自分が許容できるやり方じゃないと納得できず、それを理解してもらうためにと何十行も何時間も説得をされた。彼の言うことの根底は決して間違っているとは思わなかったし新しい視野を見せてくれるから、話を最後まで聞くことでなんとかその知見を得ようとしてみた。
しかし、仕事が進まない。彼に任せた業務は度重なる寄り道で膨れて、それらが互いの業務に影響しあってペースも落ちる一方だった。
これはまずいと感じて私はコミュニケーションの取り方を変えようと思った。そのために彼との間で新しいマインドセットを作ろうと思った。 まず、理想形は理想形として言語化しどこかに残すが、まずはどんなにその理想と離れていても作り切る方に集中するというやり方を提案してみた。彼はこれまでにないほど強く反発した。苦しそうな雰囲気さえも感じた。それも無理はない。一度でも自分にとって納得のいっていない状態でアウトプットを出してしまうことを、彼のプライドは決して許さないだろう。私がそうであったように。
ここで、私は彼との共通点に対して不快感を覚えるのではなく、共感によるどことない安心感を初めて覚えた。そして気がついた。最近の私は、そんなプライドの出る幕をうまくコントロールして仕事を仕事と割り切れているということに。
最近の私は、自ら設計やコーディングをするだけではなく、チームのリーダーとして、チーム内で書かれたコードのレビューや設計の相談を一手に引き受けている、いわゆる「テックリード」の駆け出しを任されている。その中である決定をするための選択肢が複数現れたときに、自分の主義、つまりプライドが譲れない選択肢が含まれていることがある。私が個人開発しているプロジェクトだったら絶対に取るような選択肢だったりする。もう一方の選択肢を私が選んだという記録は、私のポリシーに反してしまう。それでも、今の会社にとって、そのプロジェクトにとって、一人でも多くの人が幸せになる選択肢を選ばなければならない。
こんなとき、私の幸せを別の側面ではかってみる。プロジェクトが間延びする代わりに私のプライドが守られることと、このプロジェクトが予定通りに終わって私の評価が上がること。クソコードを許容しない仕事の質と、そのときの最善の判断だと受け入れられるようになれるだけの私自身の伸びしろ。
結局どちらにもトレードオフはある。私だってクソコードは残したくない。でも、私はそんなときに学生時代の自分が書いたコードを思い出す。恥ずかしいほどにクソコードなのである。そこで気づいた。私のプライドは私とともに成長するのだと。いずれ、今のプライドを守ったところで未来の自分のプライドを傷つける可能性は十分にあるのだと。
この気づきは、私を楽にしてくれた。もちろん行き過ぎた妥協は現実逃避であり悪であるが、それはまた別の話である。
そして私はのちに彼とこの話をした。彼はおおいに共感してくれたように見えた。会話は弾み、次第に「ゼロイチ」の話になった。
私も彼も、「ゼロイチ」が大の苦手である。お互いに、そんな認識はやはり持っていた。そして、なぜ我々には「ゼロイチ」ができないのだろうと言われた。だがその瞬間、私は初めてその認識に違和感を覚えた。
本当に我々は「ゼロイチ」ができないのだろうか?
「ゼロイチ」ができないのではなく、「ゼロイチ」の仕事にプライドをあてがっているのではないか?
「ゼロイチ」の任務は、変にこだわりを押し付けるのではなく、期限までに求められた最低品質以上の成果物を、意思決定コストを最小限にしながら作り上げることであって、その要件に「いいものをつくる」を入れ込もうとするアプローチ自体がお門違いなのではないだろうか?
だから我々は対してこだわりのない雑多なメモ書きはいくらでもできるし、すぐにスクラップすることが決まっているような作品は人並み程度にはできるのではないだろうか?
自分の書いたコードがいずれ修正されることを、頭では分かっているではないか。それが明日か、来年かなんてのは、実際のところ一緒なのではないだろうか。来年まで修正されなかったからといって、その1年間は良質なコードだったが、その次の日からはクソコードになってしまうのだろうか?
否。みなクソコードであり、みな当時考えられる最善のコードなのである。そうではないか?
彼との話で得たものは多かった。彼自身も、この話が有意義であったと言ってくれた。彼の課題が解決したかは分からないが、自分の心が澄み切っていた。それだけで十分に思えた。
プライドの存在をちゃんと認知して、その出番を理解して、コントロールすることは、もっと重要視しなければならないと感じた。
与えられた役割
かくして、最近はコミュニケーションそのものと向き合う機会が増えてきた。正直、まだ会社でのコミュニケーションは100%自然にはできていない。 気は遣うし、ふざけられないし、なんだか落ち着かない。
そして昔を思い出したときに、演劇部のみなと話すときは全くそんなことがなかったなと感じた。私は何も意識せずふざけてばかりいたので、その環境が偶発的にできたのか、誰かが意識をしてそうなっていたのか気になって、部員の中で一番のしっかり者だった舞台監督さんに、質問を投げてみた。
「ふざけたり雑談したりする時と真面目にやるときのオンオフって、演劇部のときになにか意識してた?」
彼女の回答はこうだった。「ほっとけばすぐに誰かが遊びだして完全にオフになるから、オンになるようにすることだけ考えてたよ」
そして、こう続けた。「でも、ふざけるほうが難しいよ。だから、ほっといたらふざけてくれたのは楽しいしありがたかった」
不名誉かつ不覚ながら、私の不真面目さに感謝されてしまった。ともかく、舞台監督さんがオンのスイッチを押すことを意識してくれたから成り立っていたようだ。
一方で、不名誉と自虐しつつも、私と舞台監督さんのそれぞれには、役割があったのだと感じた。オーバーに言うと、私はふざけることで、他人を救っていたのだ。
人間には生まれつき役割がある。その役割が、一見社会に直接貢献できないように感じても、見方を変えると他人を幸せにしたり救ったりするものだったりするのだ。私は深く納得し、同時に自分の不真面目さを愛せるようになれた気がした。こだわりが強くて頑固な自分を愛せるようになれた気がした。この事実に気づけた自分を、認めてやりたい気持ちが芽生えた。何かを作ろうとしては寄り道して、飽きてを繰り返す自分が好きになれた。そういうサイクルの中で、私は確実に成長していたのだ。
自信がついた。
魅力
最近になってようやく分かったのだが、私はどうしようもなく寂しがり屋で、人が大好きだ。人なしには生きていけないし、まるで成長できない。何も生み出せない。
それを分かってからというもの、友人や家族に会うたびに、私は人の魅力に敏感になっていった。
あの人は心のなかに揺るがない暖かみがあって、全てを浄化する偉大な愛を持っている。
あの人は好きな人に絶対に不安を与えまいとする強く儚い優しさを持っている。
あの人は内面に誰よりもたくましく真面目な、覚悟のようなものを持っている。
みな等しくすばらしい。そんなみんながやはり好きなのだ。
そして、それに気づける私のことが、私は大好きなのだと思う。